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zoom RSS 「巨星・松本清張」展

<<   作成日時 : 2019/03/16 16:04   >>

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神奈川近代文学館で特別展「巨星・松本清張」が開かれている。1992年(平成4年)に83歳で亡くなった松本清張が、北九州市小倉で生まれて41歳で作家となり、時代の寵児として大活躍を続ける姿が作品とともに展示されている。松本清張の足跡は、小倉にある「松本清張記念館」で常時展示されているが、それらの資料の上に神奈川近代文学館に保存されている資料が加えられている。小学校時代成績の良かった清張は、進学したかったが、稼ぎの少ない父親は進学させずに電気店の店員となった。大作家となっても、清張は小倉時代のことはあまり書かなかった。唯一の伝記「半生の記」には、小学校時代の担任教諭が進学の相談に家庭訪問に来る場面が描かれている。貧しかった清張の家の畳が腐って蛞蝓が這っている様子を見て、担任教諭は何も言わずに帰っていくが、それを清張は電柱の影から哀しく見つめていたという。12歳で働かなければならなかった清張の慰めは、本だった。着物の懐には、いつも本が入っていたという。20歳の時に参加していた読書会が特高警察の弾圧にあい、清張は2日間留置され、怒った父親は家にあった本をすべて焼いてしまう。それからの清張は印刷所の仕事に没頭して結婚し、4人の子供を育てた。一人っ子の清張の家には、父母と祖母、清張夫妻と子供たちの9人が犇いていたことになる。清張の両肩には常に9人の家族が重くのしかかっていたのだ。戦争中、清張は朝鮮に派遣されて衛生兵として従軍している。学歴差別の少ない軍隊を好ましく思うほど、実社会の中では尋常小学校卒という学歴に苦しんでいたらしい。戦後は、箒の販売を手がけ、全国を売り歩いたが、それは清張の作家としての視野を広めることにもなっている。本で読んだ史跡や古寺などを自分の目で見ることができたからだろう。戦後、朝日新聞は西部本社を小倉に移すことになり、清張は自分から売り込んで採用される。朝日新聞のデザイン係として正社員となっていく。清張がデザインした図案や広告が展示されているが、絵もうまく、書にも長けている。41歳の時に初めて書いた小説が「西郷札」だが、清張はその動機を、鬱屈した思いを晴らすため、と記している。戦後、ようやく平和になった日本の象徴のように、懸賞小説の募集が行なわれ、その広告が清張の心を揺すぶったのだ。「西郷札」は3等だったが、それを評価した編集者が声をかけて書かれたのが「或る『小倉日記』伝」だった。この作品で清張は芥川賞を受賞して、ようやく世間に認められる存在になった。当時、清張は43歳で、当時としてはとても遅い出発だった。朝日新聞社に東京転勤を申し出て認められ、清張は単身で伯母の家に寄宿して会社勤務と執筆に精を出し、雑誌「旅」に連載した「点と線」がベストセラーとなって、会社を辞めるのだ。会場には、40年間にわたる作家活動の軌跡が本や映画、舞台、テレビドラマと共に展示されている。80歳になっても海外取材をこなし、次の作品に挑んでいた巨大な星、松本清張の姿が印象に残る。

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